恵みに満たされて

金沢市の教会の牧師のブログ

『富が祝福であるために』マタイによる福音書6章24節

神に敵対する富(マモン)

より豊かに生きたい、という願いは人類に共通する願いだと思います。その願いは神様も共有しておられます。聖書の中で、人を豊かにする富が与えられることは、たびたび神様からの祝福として語られています。生きる上での苦痛から抜け出し、よりよく生きるための富を神様は与えてくださいます。

それと共に、富について批判的な言葉も聖書の中にはよく見られます。それらの箇所では、貧富の格差や不正との関連で、富や裕福な者が批判されています。富は本来、神様からの祝福でしたが、その富が祝福ではなくなることがあり得ます。

富が祝福であるためには、イエス様の言葉をしっかり受け止めることが必要なのではないかと思います。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイによる福音書6章24節)

エス様は、神に仕えることと富に仕えることは両立するものではない、と言っておられます。それは二者択一の問題です。ここでの富は「マモン」という特別な言葉が使われています。それは神様に敵対する偶像としての富です。

 

富(マモン)に支配された人間

富に仕えること――マモンという偶像に支配されること――は、現代社会が直面している深刻な課題なのではないか、と私は思っています。日本を含めた先進国は、この数十年で急速に豊かになりました。けれどもその経済成長の背景では、様々な無理を重ねてきたのではないか、と指摘する人がいます。

日本では多くの人が被雇用者・労働者となって、大きな経済システムの中で働いています。この経済システムは資本の拡張を優先する一方で、労働者の尊厳や心身の健康を後回しにしがちです。ひたすら効率的であることが求められ、過当な競争が強いられる中で、心身ともに消耗し、生命が満たされるような感覚を味わうことは難しくなっています。

また、外の世界に乗り込んでいって、そこにある人間らしい生活を破壊することも繰り返されてきました。貧しい人たちが豊かになることは大切なことですが、そこで先進国の経済の論理だけで労働が持ち込まれ、その社会が守ってきた人間らしい生活や共同体の在り方が無視されてしまうことが起こってきました。

さらには、人間に対する無理だけでなく、自然に対しても無理を強いてきました。限りある資源を制限なく貪りつくし、後戻りのできないような深刻な環境破壊を続け、生き物の生息域を奪うとともに、人間にとっても生きづらい世界へと変えていっています。

環境破壊の一つで、世界中に深刻な影響を与えつつあるものが地球温暖化による気候変動です。気候変動によって、ある地域では洪水や巨大台風の被害が多発し、他の地域では干ばつが進んで水や食料が得られなくなることが懸念されています。住む場所や生きる術を失った人たちが数億人単位で移民や難民となり、生活基盤が揺らぐことで紛争や戦争が起こるリスクも高まると言われています。

世界は豊かになってきたはずでした。ところが経済的に豊かな国々は、人間が生きるための土台となっている地球環境を今も破壊し続けています。それは経済的にも大きな損失を生みます。人間はこの世の富を支配することができると思い込んできましたが、実はマモンという富によって支配されていたのではないか、と私には思えます。

 

神に仕える

経済成長の背景にあった様々な無理は、どれもが神様に仕えることとは両立されないものです。神様は私たち人間が、この世界で豊かに生きることができるように、祝福された富を備えてくださいました。神様は私たち一人ひとりのことを、その髪の毛までも一本残らず数えるほどに覚えてくださり、その富を与えてくださいます。さらには、私たち人間がこの世界でその富を分かち合い、共に豊かになることができるような社会をつくるために、律法を与えて道を示してくださいました。

このような神様を愛し、仕えるならば、私たちは自分を大切にしますし、隣り人を同じように大切にします。グローバル化した世界にあっては、隣り人は身の回りの人だけでなく、遠く離れた地に住む人をも含むでしょう。そうであれば、環境を守り、人の生きるための土台を壊さない方向へと向かっていくはずです。

神様とマモンの富との二者択一は、財産を放棄するということではありませんし、経済活動に無関心になるということでもありません。むしろそれは神様の想いを知り、それに応えていくために、積極的に財産や経済活動についても考え、共に豊かに生きることができる社会を作り出していくことなのでしょう。

 

新しい人と社会を生み出す神の愛

ヨハネの手紙Ⅰ・3章16~18節では、富に関する神様の想いがこのように述べられています。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」

エス様は十字架の出来事を通して、神様の愛を具体的に現わしてくださいました。その愛とは、ご自身の全てを与える、というものです。神様は私たちのために、ご自身を差し出すほどに、私たちを愛してくださいました。それは天地創造の時から変わることのない神様の愛でしたが、イエス様はその愛が決して変わることがないこと、その愛が私たちに向けられていることを示してくださったのです。

ご自身を与える神様の愛は、私たちの心に新たな愛を生み出します。それは、隣り人のために自分を与える、という愛です。神様の愛への感謝の中で、私たちの心は満たされ、貪欲さから解放され、互いに与える喜びが生まれてきます。それによって、富を分かち合う新しい社会を作り出していく。それが神を愛し、神に仕えるという新しい生き方です。

エス様は新しい社会の姿を示しておられます。神様の愛は、そこに至る希望を私たちに与え、私たちをそこに向けて押し出します。この一年、コロナウイルスによって大きな変化が起こりましたが、私たちの目指すべきアフター・コロナの世界は、元の世界ではないのかもしれません。神様はもっと大きなことを計画しておられる。私たちが、また世界中の人々が富に仕えて奪い続けるのではなく、神様に仕えて――神様の愛に応えて――愛し合うことへと導こうとしておられます。

それは、神様が与えてくださる富が祝福であるために必要なことです。私たちの生命が満たされ、互いに平和に生きることができる。この世の豊かさを心から味わうことができ、共に生きる喜びを感じることができる。そんな新しい社会の在り方を私たちも祈り求め、神様の愛の素晴らしさを証していきたいと思います。