恵みに満たされて

金沢市の教会の牧師のブログ

『空腹な人がいない世界へ』マタイによる福音書25章34~36、40節

※3月14日に、前任地である札幌バプテスト教会と金沢キリスト教会との交換講壇を、Zoom(WEB会議システム)を用いて行いました。以下に掲載するのは札幌教会の礼拝で取り次いだ説教です。

 

子どもメッセージ

みなさん、お久しぶりです。元気にしていましたか? 体は元気でも、この一年、大変なことがいっぱいありましたね。本当は札幌まで出かけていって、みんなの話も聞きたいけれども、そうすることができません。遠くから、祈るだけしかできないけれど、祈っています。

私は遠くにいるけれど、いつでもみんなと一緒にいてくださるイエス様が、こんなことを言っていました。

「わたしの兄弟姉妹であるこの最も小さな人の一人にしたのは、わたしにしてくれたことですよ。」

最も小さな人ってどんな人かというと、それはお腹を空かせている人、喉が渇いている人、旅をしていて泊まるところがない人、着る物がなくて寒い思いをしている人、病気のために一人で寝ている人、捕まえられて自由がない人です。こんな人たちに、食べ物や水をあげたり、家に泊めてあげたり、訪ねていったりしたとき、それをイエス様は自分にしてくれたことだと思うのです。イエス様にとって、最も小さな人――困っていたり、苦しんでいたりする人――は、自分のことのように思えるのです。

お腹を空かせている人にごはんをあげる人って、どんな人のことでしょうか。たくさんのお金をもっていて、毎日高級レストランで食事をしている人が、食べ切れなかったパンをお腹を空かせている人にあげたとしたら、それはどうでしょうか? イエス様はその人のことをうれしく思うかな?

私はこのお話を読んで、マザー・テレサさんが出会った人のことを思い出しました。マザー・テレサさんはインドに行って、貧しい人たちを助け、心からの愛を注いだ人です。ある夜、マザーのところに、一人の男性が訪ねてきました。彼は、「8人の子どもがいるヒンズー教徒の家族がいるけれど、この何日もの間、何も食べていないのです」と言いました。そこでマザーは一食分のお米をもって、そのヒンズー教徒の家に行きました。家の中には、がりがりに痩せてしまった子どもたちがいました。

その子どもたちのお母さんは、マザーからお米を受け取ると、それを半分に分けました。そして、半分のお米をもって家から出ていきました。しばらくして戻ってきたお母さんに、マザーは聞きました。「どこへ行っていたのですか、何をしてきたのですか?」 するとその家のお母さんは答えました。「あの人たちもお腹を空かしているのです」。あの人たちというのは、隣りに住んでいるイスラム教徒の家族のことでした。その家にも8人の子どもがいて、同じように食べるものがなかったのでした。

このヒンズー教徒のお母さんのことを知って、私はとても驚きました。同じようなときに、自分もそうできるかな……、いや、とてもできそうにないな、と思います。自分や家族がお腹を空かせているときに、そのわずかなものを隣の人に分けてあげる。半分になったお米だと、自分の家族もお腹いっぱいにはなりません。それでも、隣りの人のことを思って、わずかなものを分けてあげた。

私は、イエス様が言っていた人、「最も小さい者のひとりに」ご飯をあげた人というのは、こういう人のことなのではないか、と思います。それに、イエス様もこのような人でした。たくさん持っている中からほんの一部をあげるのではなくて、そんなに多くもっていないけれど、持っているものを分ける人。そんな人は、神様に喜ばれ、神様から祝福されて、イエス様と一緒に神の国を受け継ぐのです。

そんな人に出会うと、私たちの心に神様の愛が注がれます。イエス様の愛がわかります。そうすると、私たちもイエス様がしたようなことを、小さなことでもするようになります。そんな人が集まると、もう少し大きなことができるようになります。もっと集まると、社会が変わっていきます。そんな風にして、世界は小さなところから大きなところまで変えられていきます。

この世界にはひどいことがたくさん起きます。辛く、苦しい思いをしている人もたくさんいます。それでも、この世界は何度も良くなってきました。これからももっと良くなっていくことができます。イエス様が今も私たちを、世界の人たちを導いてくださいます。イエス様と一緒に歩いて行きましょう。神様が祝福を受け、この世に現される神の国を目指して生きていきましょう。

 

誰もが神の国への道に招かれている

神様に祝福された人、神の国を受け継ぐ人とはどのような人でしょうか。それはこの世の価値観には反するものです。イエス様はこのようにおっしゃいました。「お腹を空かせている人に食事を与え、喉が渇いている人に水を飲ませ、泊まるところがない旅人に宿を貸し、裸で凍えている人に服を着せ、病気に伏せている人を見舞い、牢獄に捕らわれた人を尋ねる人、そのような人たちが神様に祝福された人である。」

エス様はまさにそのようなお方でした。イエス様のように生きる人が神様に祝福された人です。ただしこの「祝福された人」とはクリスチャンだけに限られてはいません。ここで集められた人は「すべての国民」だからです。神様の祝福は、宗教も人種も年齢も性別も越えて届けられます。クリスチャンが祝福されているのは、イエス様に出会わされ、新しくされており、イエス様に倣おうとするからです。イエス様のように行う人は、その人がイエス様に倣おうと思っていなかったとしても、神様に祝福され、神の国を受け継ぐ人です。

私はそのことにとても希望を抱きます。私たちクリスチャンは、神の国を目指して歩みます。この世にも神の国が現わされることを願い求めます。ただその歩みを、クリスチャンだけで歩まなくてもいいのです。信仰が違っても、様々な違いをもっていても、イエス様が現わされた神の国に向かう人たちとは、共に歩んでいくことができるからです。

神の国は全ての人に向けて開かれています。イエス様との出会いを与えられ、新しい生命を与えられることはクリスチャンにとって特別な祝福です。けれども、神の国へと向かう道は誰もが歩むことができる道、誰もが招かれている道です。様々な違いをもった人々が共に祝福を受ける、そんな神の国への希望が示されています。

 

神の国の姿

今日の箇所からも、神の国がどのようなものであるか、ということが想像することができます。つまり神の国は、「空腹のときに食べ物を与えられ、渇いているときに飲み物を与えられ、泊まるところがないときに宿を貸してもらえ、裸であるときに衣服を与えられ、病気のときに見舞われ、牢獄に捕らわれたときに尋ねてもらえる」ところです。このようなことが行われるところには、神の国の片鱗が現れます。

“とよひら食堂”は、まさにそのような働きでしょう。昨年からは札幌教会も“とよひら食堂”の弁当配布に加わったと伺っています。札幌豊平教会では、2016年から教会を解放し、路上で生活している方や、生活保護を受けている方と温かい食事を共にしてこられました。コロナの感染が広まってからは弁当配布に切り替えましたが、その働きをずっと続けておられます。

豊平教会の稲生先生がキリスト新聞の取材に応えておられました。

「私たちが食事を提供する最大の目的は、安心して憩える場所、ここが自分の場所だと思ってもらえる場を作ることです。……一人ひとりがここで癒やされて、自分の力で『よし、もう一度がんばろう』と立ち上がるまでのきっかけづくりだと思っています。」

「忘れがちですが、自分ひとりの力で生きている人は1人もいません。誰もが誰かに助けられて育ち、生きています。助けを求めること、そして助けることは恥ずかしいことではありません。」

神の国は、誰もが助けを必要としなくなること、自己責任で、自助努力で生きることではありません。助けを必要とするときに、誰もが誰かに助けられる。助けられることで再び力を受けて、もう一度立ち上がることができる。そのような繋がりの中に神の国が現れます。

 

神の国を妨害する呪いの力

人類は豊かになってきました。食糧のことで言えば、今や人口は77億人にもなりましたが、そのすべての人が十分に食べられるだけの食糧が作られています。様々な働きを通して、十分な食事が食べられるようになった人たち、安全な水が飲めるようになった人たち、学校に行けるようになった子どもたちがいます。この世界には良くなっていることもあります。

一方で、コロナ危機と気候変動によって、数百万人が飢餓によって命を落としかねない状況になっています。その間に、世界の超富裕層は資産を大きく増やしたそうです。マタイ福音書には「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(13章12節)という当時の格言が残されています。この個所から、小さな格差が次第に大きな格差になっていくことは、「マタイ効果」と呼ばれています。

マタイ効果の中でより多くをもった人たちが、その一部を寄付するようなことが、しばしばニュースに取り上げられますが、私にはその姿が神の国と重なりません。持っている人が持っていない人からさらに取り上げるような社会体制は、イエス様が立ち向かわれたものであり、イエス様の働きに抵抗し、その命まで奪ったものだからです。

エス様はこのようにもおっしゃっています。

「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである。」(25:41~43、『聖書 口語訳』)

この呪いの言葉は、既に多くを持ちながら、さらに多くを求め、時折その一部を施すことで罪悪感から逃れようとする人に向けられた、非常に厳しい、しかし真剣なイエス様からの批判です。

しかしイエス様は、その呪いさえ十字架で負われました。神の国の到来に抵抗する者たちによって、罵られ、辱められ、十字架に架けられたのです。その十字架の死は私たちのためのものです。私たちを捉えようとするこの呪い、悪魔の力と思えるようなこの呪いから、私たちを自由にするために、私たちが神の国へ向かって歩みだす勇気を得るように、イエス様は十字架にかかってくださいました。

そして、死は終わりではありませんでした。主イエスは三日目によみがえられました。神の国をもたらそうとするイエス様の働きは終わっていません。神の国へ向かう歩みは止まっておらず、その約束は私たちに与えられた希望として新たに与えられたのです。

 

空腹な人がいない世界へ向かって

最近、とても興味深い研究を知りました。それは「3.5%の法則」と呼ばれるものです。ハーバード大学のエリカ・チェノウェス教授は、過去200年の社会運動を研究しました。どの運動も始めは小さなものが、だんだんと大きな運動になっていきますが、全体の3.5%の人が活発に運動に参加したものは、どれも社会に大きな変革をもたらしていました。しかも、暴力的な抵抗運動よりも、非暴力的な行動の方が2倍も成功していた、といいます。

たったの3.5%です。神の国へと向かう様々な運動も、そこに3.5%の人が加わった時に、より広く神の国が現わされていくのです。もちろんそれも簡単なことではありませんが、3.5%ならできそうな気がしてきます。

世界は何度も変わってきました。たとえ今、この世界がひどいものであっても、神の国へと向かってまた新しくなることができます。ただそのためには、神の国へと向かうイエス様に従っていく人が必要です。イエス様はこの世界の全てに神の国を表すまで、その歩みを止めません。私たちの生涯の中で、それは完成するものではありませんが、私たちもその道を、主イエスに従って、主イエスと共に、主イエスに導かれて歩みたいと思うのです。

神の国は、誰も取り残されない、空腹な人がいない世界です。イエス様が現わしてくださった神の国の姿を心に刻み、それを道しるべとして歩んでいきます。信仰が異なる人たちとも、私たちは協力して、共にこの道を歩みます。小さなことから始まったことが、次第に大きくなっていき、社会を動かすものに繋がっていくものもあるでしょう。その道の途上で示された神の国の片鱗を喜びながら、神様の祝福を受け、またそれを分かち合っていきましょう。

震災と事故から10年

今週、東日本大震災発生から10年を数えようとしています。先月の時点で死者15,899人、行方不明者2,526人という甚大な被害を受けた被災地では、土地のかさ上げや堤防建設は進んでいますが、一度分断されたコミュニティーを取り戻すことは容易なことではありません。先日の福島県沖の地震によって、当時のことが思い出された方もおられるでしょう。被災された全ての方々に主が寄り添い、生きる力と希望を与えてくださるよう、祈りを合わせます。

同時に、今週は東京電力福島第一原子力発電所事故から10年にもなります。当時、発令された「原子力緊急事態宣言」は未だに解除することができていません。汚染水は日々増え続け、海洋投棄が目論まれています。使用済み核燃料の取り出し作業は遅れ、うず高く積まれた放射能汚染土も放置されたままになっています。線量が十分に低下するまでに10万年かかるとされている「核のゴミ」は、過疎地域に押し付けられようとしています。

日本バプテスト連盟・公害問題特別委員会は、原発事故から10年を経ての声明を発表しました。その最後の告白の部分を以下に引用し、想いを合わせます。

この技術を生み出した背景には、他者をむさぼり、より強く、より多く、より豊かに、今さえ良ければそれでいいという価値観の中に浸ってきた私たち自身がある。原子力(核)の技術を手放すことを求める我々は、我々自身の価値観や、生き方をも方向転換しなければならない。我々は、神の創造し給うこの地上は、太陽・地熱・風力・水力・波力などあらゆる再生可能エネルギーに満ちあふれていることに、とりわけ福島原発事故以後、気づかされてきた。我々は一刻も早く他者を犠牲とするエネルギー政策からの転換を求める。「うめいている一つの被造世界」の中に共に生かされてある私たちは、科学技術を無批判に受け入れ、これにひれ伏してはならず、主なる神の前にあって謙虚に生きなければならない。そして今なお、強いられたヒバクによって痛み、脅かされている命と連帯してゆくことをここに表明する。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、
わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8章22節)

『共に苦しむ』マルコによる福音書10章23~31節

家族ではなく自分を捨てる

エス様は、時に驚くようなことをおっしゃいます。今日の箇所も、その一つでしょう。

「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29~31)

これはどのような意味なのでしょうか。私には、イエス様が何かの目的のために家族を犠牲にすることを勧めたとは考えられません。この言葉を理解するために、まずは当時の社会において、家族がどのようなものであったか、ということを考えてみましょう。

エス様や弟子たちが暮らしていたガリラヤでは、ほとんどの人が農業を中心とした生活をしていました。農民の生活はとても厳しく、毎日十分に食べることができたわけではありません。ガリラヤの人々は家族全員で畑を耕し、生活用品や日用品も自分たちで作り、また隣近所の人たちと物を共有したり、一緒に食事をしたりしながら、懸命に生き抜いていました。

そこでは、自分が何者であるか、ということが、どの村のどの家族の一員であるか、ということによって決まりました。たとえばイエス様は、「ナザレのイエス」とか、「マリアの子イエス」と呼ばれていますが、それによって人々はイエス様がどのような者であるかということを判断していました。

どの家族の一員であるか、ということによってふさわしい職業も、社会的な地位も決まりました。社会的なネットワークにつながるためには、家族に属している必要がありました。また、家族は財産を受け継ぎ、農産物を生みだす役割もありました。イエス様は家族と並べて「家」や「畑」も挙げていますが、そのどちらもが家族と密接に結びついていました。

この前提で、イエス様の言葉を考えてみましょう。「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者」とは、第一にイエス様ご自身のことでした。ただイエス様は家族を犠牲にしたわけではありません。家族が受け継ぎ、守っていたものはそのままに残されました。イエス様の方が、家族によるネットワークや財産や保証から自らを切り離したのです。家族から離れ、家も畑も持たないことは、とても大きなリスクを負うことでした。つまりイエス様は、自分のために誰かを犠牲にしたのではなく、その使命のために自分がもっているものを捨てたのです。そしてそれを弟子たちにも勧めたのでした。

 

捨てることは難しい

弟子たちは、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)、と言いましたが、それはそんなに簡単なことではありません。イエス様と弟子たちとのこのやり取りの前に起こった出来事に、そのことが現れています。

エス様のところに一人の男性が走り寄って来ました。彼はとても真面目な人で、律法の掟を忠実に守っていました。恐らく、子どもの頃から大人に言われたことを守ってきたのでしょう。彼の努力のためか、あるいは相続したもののためかわかりませんが、彼はたくさんの財産をもっていました。彼はそれも自分の努力の成果であり、神様の祝福だと確信していました。

そのような彼がイエス様に「永遠の生命」を受け継ぐために必要なことを尋ねました。永遠の生命とは、不老不死というようなことではなくて、神様の祝福を受ける事、神の国に入れられることだと考えられます。ところがイエス様の答えは予想外のものでした。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)

つまりイエス様は彼に「何もかも捨てて従ってくること」を求めたのです。彼にとって社会的な地位の源であり、将来の保証であり、心理的にも自分を支えていたものを捨てるようにと言われたのです。彼はこの言葉を聞いてがっくりと気を落とし、悲しみながら立ち去っていきました。

彼が感じたようなことは、誰もが感じる戸惑いであり、怖れであるかもしれません。社会的な成功を、その一部を施すことならばまだしも、その全てを手離すことなど誰も考えないでしょう。困難を抱えているときであればなおさら、今ある保証や安心を手離すことは考えづらいことです。

持っているものを手離すことは誰にとっても怖いことです。まして、自己責任とか、自助といったことが強調されるならば、自分を守るためにより多くのものをもち、身を守ろうとするのは自然なことです。「何もかも捨てて従うこと」につまずくのは、この男性だけではなく、私たちも同じです。

 

捨てたものの百倍を受けるという約束

エス様は財産に象徴されるもの、自分が持っていて、自分を守るためのものを捨てることを勧めました。それによって私たちは新しい生命、新しい生き方へと導かれます。そしてそうすることによって、私たちはより多くのものを――捨てたものの百倍も多くを!――受けるとイエスは約束されました。

もちろん、それは財産を全て投資したら、それが百倍になって返ってくる、というようなことではありません。それは持っているものそのものが増えるということではなく、持っているものによって得ようとしていたこと――力、名誉、平安、生命など――が、違った形で、はるかに豊かに得られる、ということです。

永遠の生命や神の国は、イエス様の食卓にその一部が現されました。イエス様は色んな人と食事をしました。時には宗教的な指導者に招かれて、その家で食事をすることもありました。けれどもイエス様の食卓で目立つことは、当時の社会において苦しめられている人や差別されている人との食事であり、飢え渇いていた人たちとの食事でした。

その食卓で受けるものはイエス様の愛でした。分かち合われたのは全ての人をこよなく愛する神様の愛でした。そこでは人が作り出したどのような隔ての壁も打ち壊され、誰もが平等に、またあらゆることから解放されて、互いの存在を喜び合いました。それは家族を越えた交わりでしたが、家族の食卓でもたれたように、互いの絆を強め、楽しく語り合い、共に笑い、祈りを合わせる交わりでした。その食卓で、人々は力を受け、イエスの友とされ、平安が与えられ、生命が満たされました。

エスの食卓に加わろうとすると、自分で自分を守るもの、自分の力となっているものが、むしろ邪魔になります。平等で自由なイエスの食卓には、財産や地位や名誉は似合わず、むしろそれを損なうことにもなりました。それでも、イエス様はこの食卓にすべての人に加わってほしいのです。みんなが主イエスによって新しい生命を得て、この世に神様の祝福が満ちることを願っていたのです。そのためにイエス様は彼にも自分のもっているものを捨てることを求めたのでした。

 

何でもできる神の助け

エス様の食卓に加わること、また、イエス様に従うとき、私たちはこのような交わりに加わり、その祝福と喜びを分かち合い、それを伝えていきます。それはこの世が与える喜びや安心とは異なるものですが、その百倍もの喜びや平安があることを、イエス様は約束してくださいました。

それは、私たちが捨てることによって踏み出す道です。それは苦しむ人と共に苦しみを分かち合うような道です。そのような新しい生き方への道を示してくださったのは、イエス様でした。まずご自身が全てを捨て、苦しむ人と共に苦しみ、その友となり、傍らに伴い続け、そこに神の国の姿を見せてくださったイエス様が、新しい生き方への道を指し示してくださっています。

その道を歩みだす決断は、自分だけでできるものではありませんが、大丈夫です。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)

エス様との出会いも、神様への信仰も、自分だけで得るものではなく、神様が助け、導いてくださるものです。

この道をイエス様が先立って歩いてくださいました。イエス様が私たちに伴って歩いてくださいます。そしてその道の先をイエス様が約束してくださいます。私たちは一人ではありません。私たちが苦しむときに共に苦しみ、ご自身のすべてを捨ててくださったイエス様と共に生き、イエス様に従って歩いていきましょう。

隔てを越えて、新たな連帯へ

昨年、新型コロナウイルスパンデミックを受けて、世界教会協議会(WCC)と教皇庁諸宗教対話評議会(PCID/カトリック)が『諸宗教の連帯による傷ついた世界への奉仕』という共同文書を作成しました。その目的について、この文書の中で次のように述べられています。

「イエスは、仕えられるためではなく仕えるために来られました(マタイ20:28)。善いサマリア人の愛と寛大さに倣って、弱い人、弱い立場に置かれた人を支え、苦しむ人を慰め、痛みと苦しみを和らげ、すべての人の尊厳を確保するよう努めましょう。心を広げて対話し、手を広げて連帯し、癒やしと希望に満ちた世界をともに築くことができますように。」

この中で、パンデミックは世界的な危機である一方で、「富む者と貧しい者、特権を持つ者とそうでない者との、残酷なまでの格差を再確認」させていると訴えられています。人種差別はさらにひどくなり、不平等や排他主義、差別や支配のシステムによって暴力は増加しています。社会の中でこれまでも周縁に追いやられていた人々が、このパンデミックの影響を最も受けています。また、この危機は気候変動と生物多様性を脅かす危機とも関連しています。このような事態の中で、私たちはパウロと同じ告白をすることができるでしょう。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8章22節)

人と人、人と被造物の間にあった隔ての壁を越えて、うめきが聞こえてくることは、現在の危機を現しますが、壁を超えて聞こえるからこそ、新たな連帯の可能性も見出すことができます。そもそも、そのような隔ての壁が何のために作られてきたのか、ということも、問い直すチャンスでしょう。これまでにはなかったような連帯や助け合いが、色んなところで生まれています。私たちは――人と人も、人と他の被造物も――様々な関係の中で生かされているのであって、必要なことは「自己責任」や「自助」の強調ではなくて、共に生きていく方法を模索していくことでしょう。

主イエスは隔ての壁を超える方でした。主イエスが指し示し、約束された神の国は、「正義と平和によって一つに結ばれた世界」です。どのような困難にあっても、主イエスはそこに向けて今も歩み続けておられ、必ずや世界を導かれます。教会はそこに希望があることを宣べ伝えるのです。

※『諸宗教の連帯による傷ついた世界への奉仕』はこちら

『いのちの充溢に向かって』ヨハネによる福音書10章7~18節

命を豊かに受けるために

ヨハネによる福音書では、「わたしは~~である」というイエス様の言葉が繰り返し述べられています。それはイエス様がどのような方であり、その働きがどのようなものであるか、ということを告げるものです。同時に、それは教会にとって、教会の頭であるイエス様についての信仰告白でもあります。

今日の箇所では、「わたしは羊の門である」、「わたしは良い羊飼いである」と述べられています。そこではイスラエルの人々にとっては馴染み深い羊と羊飼いを通して、イエス様のことが語られています。それはイエス様が私たちにとってどのようなお方であるか、ということを告げているものでもあります。

その中でも特に注目したいのは10節の言葉です。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

神の子としてイエス様がこの世に来られ、福音を宣べ伝え、人々を癒し、働かれたのは、私たちを含めたすべての人が命を受けるためでした。それも、ただ命を得ていればいい、生きていればいいというのではなく、命を豊かに受けるためであるということが強調されています。

命は神様が創られたものです。高度に科学が発展した現代においても、一つの命さえ人の手で作り出すことはできません。神様はこの世界を形作り、そこに多様な命を創られました。この世の命は――生物だけでなく地球環境も含めて――多様な結びつきの中で循環しています。そのような豊かな循環の中で、私たち人間が平和と自由を得、愛に基づいた関係をもち、個々の尊厳を守られ、力を発揮していく。そのようにして、創られた命が豊かにされていくことが、イエス様の来られた目的でした。神様は全ての命を祝福するためにこの世界を創りました。私たちの命は祝福され、神様の愛を受け、豊かになるために与えられたのです。

 

命を捨てたイエス

エス様は羊の門です。羊たちは昼の間、外で草を食べますが、夜になると囲いの中で休みます。羊飼いは門の前で番をして、羊が迷い出ないように、また襲われないように守ります。そのように、人の命を守ること、その命の豊かさを守ることがイエス様の働きでした。

羊の門での番が必要なのは、羊を盗んだり、屠ったりする盗人や、奪ったり、追い散らしたりする狼がいるからです。そのように、この世には私たちの命を脅かすものがあります。それにはウイルスのようなものや、地震のような自然災害もありますが、それだけではありません。むしろここでは人の力――様々な社会的な力――のことが考えられているように思えます。

例えばそれには軍隊や警察という力による暴力的な支配・統制が含まれるでしょう。ミャンマーでは国軍クーデターに対して100万人を越えるデモが行われていますが、軍がそれを鎮圧しようとしたために、命が奪われています。軍事政権下で苦しい思いをしてきた人々が、そこに再び戻らないようにと抵抗運動を続けておられます。

あるいは経済的な力もあるでしょう。無限の成長を目指すグローバル経済は、人にも自然にも多くの犠牲を求めています。貧困や差別を生みだし、あるいはそれを利用する体制は、どれほど物に溢れ、どれほど新しい物が作られようとも、人の命を豊かにするものではありません。

エス様は、そのような盗人や狼ではなく、良い羊飼いです。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)。様々な力によって命を脅かされ、犠牲にされている人たちが、命を守られ、豊かに得るために、イエス様は来られました。そのような人たちのために、イエス様はご自身の命を捨てたのです。私たちがイエス様によって豊かになるために、そうしてくださったのです。

 

私のために、またこの世のために

エス様は私たちのことを知っておられます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。イエス様の命は、「人類のために」というような漠然としたものではなく、私たち一人ひとりのために差し出されました。イエス様は私たちの名を呼びます。神様は私たちの髪の毛の一本にいたるまで知っておられます。イエス様はその神様と一つであり、私たち一人一人のことを知り、この私たちの命の守り、豊かにするために、ご自身の命を与えてくださいます。

しかしそこにあるのは一方的な関係ではありません。イエス様と神様の間には、互いのことを知るという相互的な関係がありました。そこに愛があったのです。それと同じように、イエス様と私たちの間にも、相互的な関係と作ってくださいます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。私たちの名を呼び、声を聞いてくださるイエス様を、私たちも呼びかけ、その声を聞くことができます。私たちがイエス様に愛され、私たちもイエス様を愛することができるのです。

この愛は、私たちだけに向けられたものではありません。イエス様は全ての人のために命を捨てたのです。「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(15~16節)。この世に生きる全ての命が豊かにされるまで、さらにはこの世そのものが豊かにされるまで、イエス様の働きは終わりません。

神様の想いは、私たちも含めたこの世の全てが救われることです。それは神様の創造された世界の素晴らしさを取り戻すことであり、あるいはその創造の働きを完成することです。私たちに届けられたイエス様の福音は、他ならぬこの私たちに向けられたものであると共に、世界の全ての人に向けられた良き知らせでもあるのです。

 

命の主への礼拝

エス様の働きは、言葉を語ることも、行動をされることも含めて、宣教と呼ぶことができます。教会はイエス様の宣教のために生まれた共同体です。教会はイエス様の福音を宣べ伝え、イエス様に従って歩み続ける群れです。私たちはイエス様と同じにはなれませんが、イエス様に似た者とされながら、宣教の働きを共に担っていきます。

その宣教は、神様の想いを実現へと方向付けられます。それは、この世の命が豊かにされること――命の充溢――に向かうものとなります。それは与えられた一つひとつの命を喜び、それを守り、祝福を分かち合うことです。同時に、それは命を脅かし、犠牲にする様々な力と闘い、抵抗することでもあります。

私たちが成す宣教の働きは、神様の宣教に仕えるものです。神様は、この世界の只中で、具体的な時間と状況において活動し、正義と平和と和解を通してこの世の命を満ち満ちたものにしようとしておられます。私たちは神様からの霊を受けて、力を与えられ、押し出されて、この世での神様の宣教に加えられていきます。

教会の中でなされる働きも、それぞれの生きる場で行われる働きも、それが命の充溢に向かうものであれば、それは神様の宣教の一環です。直接的に「命を救った」と実感できるような働きだけでなく、私たちが語ることと行うことを通して、命の豊かさを生みだし、あるいは命を守り支えることが、神様の宣教に仕えるものとなります。

そこに私たちを押し出す場所、あるいは私たちがイエス様と結ばれる所が教会であり、礼拝です。ただ、礼拝は日曜日のこのだけに行うものではありません。ある方はそのような宣教活動を「礼拝式の後の礼拝」と呼んでいます。私たちは命の豊かさを生み出し、またそれを守ることを通して、命の主である神様を礼拝しているのです。

神様の宣教に仕えるとき、イエス様はいつも私たちと共におられます。私たちの先を歩み、また私たちを後ろから支えていてくださいます。命が豊かにされることに向かって歩み続けるイエス・キリストと、私たちもしっかりと結びつけられ、教会において、またそれぞれの場所において、この主イエスを証しし、礼拝していきたいと思います。

教会のスチュワードシップ

ミャンマー・バプテスト連盟は、

①聖書の教えに合致した愛、正義、平和および自由を促進する基盤の上に常に堅く立つキリスト教の団体です。

 

②2021年2月1日、特にこのような我が国を含む全世界が新型コロナウイルスパンデミックのために大変苦しんでいる時、軍部が全土に非常事態を宣言して国家権力を奪取したことによってもたらされた、民衆のショック、悲しみ、そして失望を共有しています。

 

③聖書の教えに反するいかなる抑圧的支配システムも拒否します。

 

④大統領、国家顧問そしてその他すべての現在拘束されている人々を即時かつ無条件に解放することを、切に求めます。

 

⑤平和、正義、国民和解、非暴力そして人権と尊厳を尊重し、促進する連邦民主制に基づくミャンマー連邦共和国が出現する希望をもって、この声明を発表します。」

 

ミャンマー神学研究所の声明

 

「①私たちの学校のテーマ「正義と平和のための連帯」にあるように、ミャンマー神学研究所は、聖書に書かれている神のいのちのことばの光の中で、正義と平和を常に尊重し、支持し、教え、実践する神学研究所です。

 

②私たちは、ミャンマーの人々の側にしっかりと立ちます。彼らは、イエスキリストの道である、正義と平和が広く行われることに対する自らの意思と、誠実な願いを、この国において自由に表明してきました。

 

③私たちは、軍事政権の、すべての不当で強制的、抑圧的、権威主義的な行動を非難します。その行動は人々の力を制御することにつながり、ミャンマーの大多数の人々の意志に反します。

 

④私たちは、ウィンミン大統領とアウンサンスーチー国家顧問を含むすべての拘留された民間人及び指導者たちを直ちに解放することを強く要請します。

 

⑤私たちは市民的不服従を積極的に支援し参加します。私たちの国における正義、平和、和解、人間の尊厳、人権、そして自由を促進するために非暴力的な方法で行われる、ミャンマーの人々のあらゆる運動を支援し参加します。」

 

信仰におけるスチュワードシップを考えるときには、個人としての働きはもちろんのこと、教会に託された使命も考えます。教会は、この世における神の恵みが正しく分かち合われ、一人ひとりが神様のかたちに創られた存在として尊厳を守られ、平和(シャローム)が作られていくために働くことが託されています。クーデターという危機に直面しておられるミャンマーの教会の声から、そのことを学びます。ミャンマーの平和のために私たちも祈りを合わせます。

『互いに仕えなさい』ペトロの手紙一4章7~11節

この世の全ては神様のもの

 

今月は「スチュワードシップ月間」です。「スチュワードシップ」とは、ギリシア語の“οἰκονόμος”という言葉が基になっている言葉です。ペトロの手紙一4章10節で「管理者」と訳されているのが、この“οἰκονόμος”です。ですから、スチュワードシップとは、管理者としての働きのことを意味しています。

 

「管理者」というからには、そこでは自分の物ではない何かを管理することが前提とされています。聖書の時代では、家の主人が自分の財産を管理人に託すことがありました。管理人には財産の管理と運用の一切が任されますが、それでも財産の所有権は管理人ではなく主人にあります。教会でスチュワードシップについて考える時には、私たちが神様のものを管理し、用いることを考えます。

 

では、何が神様のものなのでしょうか。教会はもちろんそうですが、それだけではありません。一言で言えば、この世の全てのものが神様のもの、ということができます。

 

「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。

 主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。」(詩編24:1~2)

 

神様は素晴らしい世界を創られた。その世界は全て神様のものであり、人間はこの素晴らしい世界の管理者として立てられた。これが聖書の基本的な信仰です。この世にあるもの、この世に生きるものは、それが個人のものであれ、企業や団体のものであれ、国家のものであれ、その全てが本来は神様のものなのです。

 

 

不自由な人間

 

このような所有の理解は、私たちに発想の転換を求めます。私たちの生きる資本主義社会では、所有権ということが厳密に考えられています。これは誰のものか、ということが厳密に区分けされており、自分が所有する物については、それをどのように扱ってもいいと考えられます。

 

けれども、この世界が神様のものであり、私たちはその管理を託された管理人である、となると、自分の思いだけでそれを好きに扱うことはできなくなります。それは個人の所有物を手離すということではありませんが、それを管理し、用いる目的が、私の思いだけでは決められなくなる、ということです。つまり、神様の管理人であることを自覚したならば、私たちは神様の想いに心を向け、神様の期待に応えようとするようになるのです。

 

何だか窮屈で不自由なことだと感じるかもしれません。自分の物は自分の思いのままにできる、ということの方が自由であり、その方が幸せを手にすることができる、と思うかもしれません。実際に、この世ではそのようなメッセージが伝えられてきたと思うのです。好きな物を、好きな時に、好きなだけ手に入れて、好きなように使うことができる、それが人間の幸福だ、と。

 

私もそう思っていました。けれども、今、世界が直面している気候危機を思う時に、そのような考えが間違っていたのかもしれないと思い始めました。人間はとても自由になったはずなのに、自分たちの行動によって大きな災害を引き起こし、水や食料の危機を招こうとしている。それはとても危険なことだとわかっていながら、方向転換することができずにいる。このような人間の姿は少しも自由ではありません。

 

 

自由を与える主

 

神様は私たち人間をこの世の管理人として立ててくださいました。そのとき、神様は私たちのことを全く信頼して、その働きを任せてくださいました。人間は度々、神様の信頼を裏切って来ました。完全にその信頼に応えたことなど、今まで一度もなかったかもしれません。それでも神様は、私たちを日々管理し、事細かに支持を与えて従わせようとはなさいませんでした。私たちが自ら神様の信頼に応えることを信じて、神様は忍耐して待ち続けていてくださいます。

 

私たちは神様の信頼を知らず、あるいはそれを忘れて、自分が管理人ではなく、主人であるかのように振舞ってきました。それによって神様との関係を損ないました。それによって生じたことは、隣り人との対立や分断であり、環境の破壊でした。私たち人間は、自由に振舞っているつもりでいて、実は滅びへ向かう道から逃れる術を知らない不自由な存在になっていたのではないでしょうか。

 

神様はそんな私たちを捨ててはおきませんでした。私たちを呼び戻し、立ち帰らせるためにイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。神様と一つであったイエス様は、私たちに神様の想いを示し、私たちを神様と結び合わせてくださいました。

 

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8:31~32)

 

私たちは神様のもとで真に自由になることができます。それは自分勝手に振舞うことができるという意味ではなく、私も隣人も共に幸せになる自由です。滅びに向かう自由ではなく、神様の祝福に与る自由をイエス・キリストが与えてくださるのです。

 

 

それぞれの賜物で互いに仕え合う

 

クリスチャンは主イエスを私の救い主と信じ、主によって新しくされた者たちであり、神の恵みの善い管理者として生きようとする者たちです。今日の箇所では、クリスチャンの生き方の指針が述べられています。

 

第一の指針は、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ることです。私たちは自分勝手に振舞うのではなく、神様の想いを尋ね求め、それに応えるように自分の想いが変えられていくことを祈り求めます。また、教会の群れが神様の信頼に応えることができるように、祈りを合わせます。この祈りは、誰もが行える奉仕であり、最も基本的な、それでいて最も重要な奉仕です。

 

それに続いて、心を込めて愛し合うことが挙げられます。「愛は多くの罪を覆う」というのは、初期のキリスト教会が好んで用いていた標語だったと言われています。私たちは独りで神様に仕えるのではなく、共に仕えるのであり、また助け合い、支え合いながら仕えます。独りではこの世に流されてしまいますが、愛し合うという相互性をもつことで、そこに留まり続けたり、あるいは立ち帰ったりすることができます。

 

この愛は、教会の内側だけに向けられたものではありません。不平を言わずにもてなし合いなさい、と言われています。旅人をもてなすことも神様の想いです。教会は自己目的化されてはなりません。もちろん、この教会のことも考えますが、教会を超えた交わりを大切にすること、また、この世に生きる人々を大切にすることもまた、神様の想いに応えることです。

 

その教会に、神様はさまざまな恵みを与えてくださいました。神様が私たちに託してくださった賜物はそれぞれに異なりますが、その間に優劣はありません。その奉仕のどれもが神様に仕えるものです。それらは人に仕えるものではなく、神様に仕えるものです。それぞれの賜物が活かされることで、神様が栄光を受けます。そのとき、ここに神の国が現れ、神様の祝福が満ちることでしょう。

 

その奉仕は、神様がお与えになった力に応じて行うようにと言われています。金沢教会のモットーは、「ゆっくり、ぼちぼち、無理せず・楽せず、できる人ができること、できない人も一緒に、一人一人が精いっぱい」です。人には向き・不向きがあります。その時々によって、できること・できないことも変わってきます。それぞれの力に応じて、でも精いっぱいに神様の恵みの善い管理者となっていきたいのです。

 

クリスチャンとは、このスチュワードシップ精神に生きる人のことです。神様が願うのは、私だけが豊かになることではなく、私たちが互いに仕え合い、神様の祝福を豊かに分かち合うことです。それは教会の中だけでなく、この世界に広がることを願われていることでもあります。クリスチャンは、神様の信頼と期待に応え、互いに仕え合う豊かさをこの世の中で表します。そうすることで、私たちは誰よりも人に仕えてくださったイエス・キリストを証しし、この世の光となるのです。