恵みに満たされて

金沢市の教会の牧師のブログ

『共に苦しむ』マルコによる福音書10章23~31節

家族ではなく自分を捨てる

エス様は、時に驚くようなことをおっしゃいます。今日の箇所も、その一つでしょう。

「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マルコ10:29~31)

これはどのような意味なのでしょうか。私には、イエス様が何かの目的のために家族を犠牲にすることを勧めたとは考えられません。この言葉を理解するために、まずは当時の社会において、家族がどのようなものであったか、ということを考えてみましょう。

エス様や弟子たちが暮らしていたガリラヤでは、ほとんどの人が農業を中心とした生活をしていました。農民の生活はとても厳しく、毎日十分に食べることができたわけではありません。ガリラヤの人々は家族全員で畑を耕し、生活用品や日用品も自分たちで作り、また隣近所の人たちと物を共有したり、一緒に食事をしたりしながら、懸命に生き抜いていました。

そこでは、自分が何者であるか、ということが、どの村のどの家族の一員であるか、ということによって決まりました。たとえばイエス様は、「ナザレのイエス」とか、「マリアの子イエス」と呼ばれていますが、それによって人々はイエス様がどのような者であるかということを判断していました。

どの家族の一員であるか、ということによってふさわしい職業も、社会的な地位も決まりました。社会的なネットワークにつながるためには、家族に属している必要がありました。また、家族は財産を受け継ぎ、農産物を生みだす役割もありました。イエス様は家族と並べて「家」や「畑」も挙げていますが、そのどちらもが家族と密接に結びついていました。

この前提で、イエス様の言葉を考えてみましょう。「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者」とは、第一にイエス様ご自身のことでした。ただイエス様は家族を犠牲にしたわけではありません。家族が受け継ぎ、守っていたものはそのままに残されました。イエス様の方が、家族によるネットワークや財産や保証から自らを切り離したのです。家族から離れ、家も畑も持たないことは、とても大きなリスクを負うことでした。つまりイエス様は、自分のために誰かを犠牲にしたのではなく、その使命のために自分がもっているものを捨てたのです。そしてそれを弟子たちにも勧めたのでした。

 

捨てることは難しい

弟子たちは、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(10:28)、と言いましたが、それはそんなに簡単なことではありません。イエス様と弟子たちとのこのやり取りの前に起こった出来事に、そのことが現れています。

エス様のところに一人の男性が走り寄って来ました。彼はとても真面目な人で、律法の掟を忠実に守っていました。恐らく、子どもの頃から大人に言われたことを守ってきたのでしょう。彼の努力のためか、あるいは相続したもののためかわかりませんが、彼はたくさんの財産をもっていました。彼はそれも自分の努力の成果であり、神様の祝福だと確信していました。

そのような彼がイエス様に「永遠の生命」を受け継ぐために必要なことを尋ねました。永遠の生命とは、不老不死というようなことではなくて、神様の祝福を受ける事、神の国に入れられることだと考えられます。ところがイエス様の答えは予想外のものでした。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)

つまりイエス様は彼に「何もかも捨てて従ってくること」を求めたのです。彼にとって社会的な地位の源であり、将来の保証であり、心理的にも自分を支えていたものを捨てるようにと言われたのです。彼はこの言葉を聞いてがっくりと気を落とし、悲しみながら立ち去っていきました。

彼が感じたようなことは、誰もが感じる戸惑いであり、怖れであるかもしれません。社会的な成功を、その一部を施すことならばまだしも、その全てを手離すことなど誰も考えないでしょう。困難を抱えているときであればなおさら、今ある保証や安心を手離すことは考えづらいことです。

持っているものを手離すことは誰にとっても怖いことです。まして、自己責任とか、自助といったことが強調されるならば、自分を守るためにより多くのものをもち、身を守ろうとするのは自然なことです。「何もかも捨てて従うこと」につまずくのは、この男性だけではなく、私たちも同じです。

 

捨てたものの百倍を受けるという約束

エス様は財産に象徴されるもの、自分が持っていて、自分を守るためのものを捨てることを勧めました。それによって私たちは新しい生命、新しい生き方へと導かれます。そしてそうすることによって、私たちはより多くのものを――捨てたものの百倍も多くを!――受けるとイエスは約束されました。

もちろん、それは財産を全て投資したら、それが百倍になって返ってくる、というようなことではありません。それは持っているものそのものが増えるということではなく、持っているものによって得ようとしていたこと――力、名誉、平安、生命など――が、違った形で、はるかに豊かに得られる、ということです。

永遠の生命や神の国は、イエス様の食卓にその一部が現されました。イエス様は色んな人と食事をしました。時には宗教的な指導者に招かれて、その家で食事をすることもありました。けれどもイエス様の食卓で目立つことは、当時の社会において苦しめられている人や差別されている人との食事であり、飢え渇いていた人たちとの食事でした。

その食卓で受けるものはイエス様の愛でした。分かち合われたのは全ての人をこよなく愛する神様の愛でした。そこでは人が作り出したどのような隔ての壁も打ち壊され、誰もが平等に、またあらゆることから解放されて、互いの存在を喜び合いました。それは家族を越えた交わりでしたが、家族の食卓でもたれたように、互いの絆を強め、楽しく語り合い、共に笑い、祈りを合わせる交わりでした。その食卓で、人々は力を受け、イエスの友とされ、平安が与えられ、生命が満たされました。

エスの食卓に加わろうとすると、自分で自分を守るもの、自分の力となっているものが、むしろ邪魔になります。平等で自由なイエスの食卓には、財産や地位や名誉は似合わず、むしろそれを損なうことにもなりました。それでも、イエス様はこの食卓にすべての人に加わってほしいのです。みんなが主イエスによって新しい生命を得て、この世に神様の祝福が満ちることを願っていたのです。そのためにイエス様は彼にも自分のもっているものを捨てることを求めたのでした。

 

何でもできる神の助け

エス様の食卓に加わること、また、イエス様に従うとき、私たちはこのような交わりに加わり、その祝福と喜びを分かち合い、それを伝えていきます。それはこの世が与える喜びや安心とは異なるものですが、その百倍もの喜びや平安があることを、イエス様は約束してくださいました。

それは、私たちが捨てることによって踏み出す道です。それは苦しむ人と共に苦しみを分かち合うような道です。そのような新しい生き方への道を示してくださったのは、イエス様でした。まずご自身が全てを捨て、苦しむ人と共に苦しみ、その友となり、傍らに伴い続け、そこに神の国の姿を見せてくださったイエス様が、新しい生き方への道を指し示してくださっています。

その道を歩みだす決断は、自分だけでできるものではありませんが、大丈夫です。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)

エス様との出会いも、神様への信仰も、自分だけで得るものではなく、神様が助け、導いてくださるものです。

この道をイエス様が先立って歩いてくださいました。イエス様が私たちに伴って歩いてくださいます。そしてその道の先をイエス様が約束してくださいます。私たちは一人ではありません。私たちが苦しむときに共に苦しみ、ご自身のすべてを捨ててくださったイエス様と共に生き、イエス様に従って歩いていきましょう。