恵みに満たされて

金沢市の教会の牧師のブログ

『いのちの充溢に向かって』ヨハネによる福音書10章7~18節

命を豊かに受けるために

ヨハネによる福音書では、「わたしは~~である」というイエス様の言葉が繰り返し述べられています。それはイエス様がどのような方であり、その働きがどのようなものであるか、ということを告げるものです。同時に、それは教会にとって、教会の頭であるイエス様についての信仰告白でもあります。

今日の箇所では、「わたしは羊の門である」、「わたしは良い羊飼いである」と述べられています。そこではイスラエルの人々にとっては馴染み深い羊と羊飼いを通して、イエス様のことが語られています。それはイエス様が私たちにとってどのようなお方であるか、ということを告げているものでもあります。

その中でも特に注目したいのは10節の言葉です。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

神の子としてイエス様がこの世に来られ、福音を宣べ伝え、人々を癒し、働かれたのは、私たちを含めたすべての人が命を受けるためでした。それも、ただ命を得ていればいい、生きていればいいというのではなく、命を豊かに受けるためであるということが強調されています。

命は神様が創られたものです。高度に科学が発展した現代においても、一つの命さえ人の手で作り出すことはできません。神様はこの世界を形作り、そこに多様な命を創られました。この世の命は――生物だけでなく地球環境も含めて――多様な結びつきの中で循環しています。そのような豊かな循環の中で、私たち人間が平和と自由を得、愛に基づいた関係をもち、個々の尊厳を守られ、力を発揮していく。そのようにして、創られた命が豊かにされていくことが、イエス様の来られた目的でした。神様は全ての命を祝福するためにこの世界を創りました。私たちの命は祝福され、神様の愛を受け、豊かになるために与えられたのです。

 

命を捨てたイエス

エス様は羊の門です。羊たちは昼の間、外で草を食べますが、夜になると囲いの中で休みます。羊飼いは門の前で番をして、羊が迷い出ないように、また襲われないように守ります。そのように、人の命を守ること、その命の豊かさを守ることがイエス様の働きでした。

羊の門での番が必要なのは、羊を盗んだり、屠ったりする盗人や、奪ったり、追い散らしたりする狼がいるからです。そのように、この世には私たちの命を脅かすものがあります。それにはウイルスのようなものや、地震のような自然災害もありますが、それだけではありません。むしろここでは人の力――様々な社会的な力――のことが考えられているように思えます。

例えばそれには軍隊や警察という力による暴力的な支配・統制が含まれるでしょう。ミャンマーでは国軍クーデターに対して100万人を越えるデモが行われていますが、軍がそれを鎮圧しようとしたために、命が奪われています。軍事政権下で苦しい思いをしてきた人々が、そこに再び戻らないようにと抵抗運動を続けておられます。

あるいは経済的な力もあるでしょう。無限の成長を目指すグローバル経済は、人にも自然にも多くの犠牲を求めています。貧困や差別を生みだし、あるいはそれを利用する体制は、どれほど物に溢れ、どれほど新しい物が作られようとも、人の命を豊かにするものではありません。

エス様は、そのような盗人や狼ではなく、良い羊飼いです。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)。様々な力によって命を脅かされ、犠牲にされている人たちが、命を守られ、豊かに得るために、イエス様は来られました。そのような人たちのために、イエス様はご自身の命を捨てたのです。私たちがイエス様によって豊かになるために、そうしてくださったのです。

 

私のために、またこの世のために

エス様は私たちのことを知っておられます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。イエス様の命は、「人類のために」というような漠然としたものではなく、私たち一人ひとりのために差し出されました。イエス様は私たちの名を呼びます。神様は私たちの髪の毛の一本にいたるまで知っておられます。イエス様はその神様と一つであり、私たち一人一人のことを知り、この私たちの命の守り、豊かにするために、ご自身の命を与えてくださいます。

しかしそこにあるのは一方的な関係ではありません。イエス様と神様の間には、互いのことを知るという相互的な関係がありました。そこに愛があったのです。それと同じように、イエス様と私たちの間にも、相互的な関係と作ってくださいます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)。私たちの名を呼び、声を聞いてくださるイエス様を、私たちも呼びかけ、その声を聞くことができます。私たちがイエス様に愛され、私たちもイエス様を愛することができるのです。

この愛は、私たちだけに向けられたものではありません。イエス様は全ての人のために命を捨てたのです。「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(15~16節)。この世に生きる全ての命が豊かにされるまで、さらにはこの世そのものが豊かにされるまで、イエス様の働きは終わりません。

神様の想いは、私たちも含めたこの世の全てが救われることです。それは神様の創造された世界の素晴らしさを取り戻すことであり、あるいはその創造の働きを完成することです。私たちに届けられたイエス様の福音は、他ならぬこの私たちに向けられたものであると共に、世界の全ての人に向けられた良き知らせでもあるのです。

 

命の主への礼拝

エス様の働きは、言葉を語ることも、行動をされることも含めて、宣教と呼ぶことができます。教会はイエス様の宣教のために生まれた共同体です。教会はイエス様の福音を宣べ伝え、イエス様に従って歩み続ける群れです。私たちはイエス様と同じにはなれませんが、イエス様に似た者とされながら、宣教の働きを共に担っていきます。

その宣教は、神様の想いを実現へと方向付けられます。それは、この世の命が豊かにされること――命の充溢――に向かうものとなります。それは与えられた一つひとつの命を喜び、それを守り、祝福を分かち合うことです。同時に、それは命を脅かし、犠牲にする様々な力と闘い、抵抗することでもあります。

私たちが成す宣教の働きは、神様の宣教に仕えるものです。神様は、この世界の只中で、具体的な時間と状況において活動し、正義と平和と和解を通してこの世の命を満ち満ちたものにしようとしておられます。私たちは神様からの霊を受けて、力を与えられ、押し出されて、この世での神様の宣教に加えられていきます。

教会の中でなされる働きも、それぞれの生きる場で行われる働きも、それが命の充溢に向かうものであれば、それは神様の宣教の一環です。直接的に「命を救った」と実感できるような働きだけでなく、私たちが語ることと行うことを通して、命の豊かさを生みだし、あるいは命を守り支えることが、神様の宣教に仕えるものとなります。

そこに私たちを押し出す場所、あるいは私たちがイエス様と結ばれる所が教会であり、礼拝です。ただ、礼拝は日曜日のこのだけに行うものではありません。ある方はそのような宣教活動を「礼拝式の後の礼拝」と呼んでいます。私たちは命の豊かさを生み出し、またそれを守ることを通して、命の主である神様を礼拝しているのです。

神様の宣教に仕えるとき、イエス様はいつも私たちと共におられます。私たちの先を歩み、また私たちを後ろから支えていてくださいます。命が豊かにされることに向かって歩み続けるイエス・キリストと、私たちもしっかりと結びつけられ、教会において、またそれぞれの場所において、この主イエスを証しし、礼拝していきたいと思います。