恵みに満たされて

金沢市の教会の牧師のブログ

『協力を惜しまない』使徒言行録11章19~30節

協力伝道を行ってきた金沢教会

 

本日から来週までの期間を、日本バプテスト連盟では「協力伝道週間」として定めています。そうはいっても、「連盟」がどのようなものか、よくわからないと思われるかもしれません。「協力伝道」がどのようなものかわからなないので祈りようがない、と思われるかもしれません。

 

金沢教会は協力伝道を体感することができる教会です。協力伝道によって支えられることがなければ、今のような金沢教会はおそらく存在しないからです。

 

協力伝道に関わる金沢教会の歴史を少しだけ振り返ってみましょう。金沢教会は、1953年に京都教会の伝道所として、連盟の祈りと支援の中で生み出されました。その当時からF・C・パーカー宣教師ご夫妻が伝道の働きを担ってくださり、1964年にはM・J・ランドル宣教師にその働きが受け継がれていきました。

 

連盟の繋がりの中で、初代牧師として宮地先生が金沢に遣わされ、その後、石堂牧師、瀬戸牧師を招聘してきました。瀬戸牧師の辞任後は、当時、連盟の宣教室長であった安藤先生が臨時牧師として教会を支えてくださいました。その後、宮本牧師、田代牧師を招聘しましたが、1995年に無牧師となったときには、連盟の常務理事であった内藤先生が教会の牧会と幼稚園園長を担ってくださいました。

 

1996年からは、田口先生が連盟の国内宣教師として金沢教会に派遣されました。「国内宣教師」というのは、後にも先にもこの一件だけであり、2007年まで人的にも経済的にも協力伝道によって支えられました。金沢教会では、2007年から田口先生を改めて牧師として招聘し、昨年まで牧師としての働きを担っていただきました。

 

2011年にはテイル&デイナ・ハッカベイ宣教師ご夫妻を、翌年にはカイル&ジニー・ハッカベイ宣教師ご夫妻をそれぞれ短期宣教師としてお迎えしました。2013年から3年間は、連盟の全国拠点・地域協働プロジェクトでの支援を受けて、カーソン&ローラ・フーシー宣教師ご夫妻を迎え入れることができました。

 

牧師の招聘も、宣教師の派遣も、協力伝道の関係があってこそ実現できたことです。その他にも、特伝の講師や伝道隊としてお迎えした方々を挙げればきりがないほどに、多くの方を送っていただきました。会堂建築の際には、全国からの献金もいただきました。連盟の事務所は遠く埼玉にありますが、協力伝道は、金沢教会の歴史の中で具体的に行われてきたことでした。

 

その一方で、金沢教会も協力伝道に励んできました。全国的な集会に参加することもありましたし、牧師を特伝の講師として派遣したり、神学生を派遣したりしてきました。また、田口先生を理事として2年、理事長として計6年、派遣してきたことも大きな働きであったでしょう。その間、田口先生もお忙しかったと思いますが、それを支え、共に歩んだ教会・役員会も、一緒に協力伝道に励んできた、と言えるでしょう。そして、協力伝道のための献金も、本当に精一杯、ささげてきました。

 

このように、金沢教会は、まさに協力伝道を行ってきた教会なのです。

 

 

人を送り、養い育てる

 

「協力伝道」という言葉は聖書にはありませんが、教会間の協力ということは、使徒言行録の中にも見つけることができます。今日、お読みした個所は、アンティオキア教会とエルサレム教会の間でなされた協力伝道だと言うこともできるでしょう。

 

エルサレムで起こった事件と迫害をきっかけとして、各地に散らされていった人たちが、それぞれの町でイエス様の福音を伝えました。その人たちは特別な訓練を受けた宣教師ではありませんでしたが、自分がいる場所で、自分の言葉で、福音を宣べ伝えていきました。

 

すると、アンティオキアでたくさんの人がイエス様を主と信じるようになりました。それは福音を伝えた人たちが優れていたからではなく、「主がこの人々を助けられた」からです(11:21)。福音は、パウロのように聖書に名前が残された人だけが伝えたのではありません。名前も知られていないたくさんの人たちが、イエス様のことを伝えていきました。その人たちがいて、その人たちを神様が助けてくださったので、あちらこちらで福音が伝えられていったのです。

 

けれども、そのままでは教会として一つの群れにはなれなかったかもしれません。そこにバルナバが派遣されました。彼は「立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」(11:24)と言われています。迫害に晒されていたエルサレム教会が、このような大切な働き人をアンティオキア教会へと送り出したのです。

 

バルナバはアンティオキアで起こっていることを見て喜びました。そして、タルソスという町からサウロ――後にパウロと呼ばれる人――を連れてきて、丸一年間、アンティオキアの教会で多くの人たちを教えました。タルソスはサウロの出身地でしたが、彼はそこに留まるのではなく、新たなところでの使命に応えたのです。

 

アンティオキアの人たちは、バルバナやサウロが来る前に、イエス様を主と信じていました。けれども、この世の中でキリスト者として生きていくためには、時間をかけながら、また周りのサポートを受けながら、養い育てられる、ということも必要です。なぜなら、キリスト者として生きること――イエス様に従っていくことは、この世での常識や慣習に反することだからです。

 

私たちは、イエス様のことを知り、イエス様に従い続けるために、信仰を論じ合い、学び合うことが必要です。時には他の教会から人を招いたり、あるいは『聖書教育』誌や『バプテスト』誌、『世の光』誌などを読んだりしながら、教えられ、導かれることが必要です。

 

エルサレムの教会は、アンティオキアの教会のために、大切な働き人を送り出しました。それも順風満帆で、余裕のあるときにではなく、まだ教会として誕生したばかりで、迫害を受けている中で、他の教会のために派遣をしたのです。それによってアンティオキアの教会は、バルナバと彼が連れてきたサウロによって教えられ、養い育てられました。これはまさに協力伝道でした。

 

 

精一杯をささげる

 

エルサレム教会とアンティオキア教会、あるいは他の教会との間に、この後も人的な交流があったのかどうかは、よくわかりません。ただ、アンティオキア教会は、エルサレム教会から支援を受けるばかりではなかったことが記されています。

 

世界中――当時のローマ帝国内――で大飢饉が起こった時、エルサレムを含むユダヤに住む人たちが困窮したことがありました。そのときに、アンティオキア教会の人たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤの教会の人たちに援助の品を送りました。その送り物を携えていったのは、バルナバとサウロでした。

 

二人がアンティオキアにいたのは丸一年間だけでした。もともとそのつもりだったのかもしれませんし、教会の様子を見て、一年で十分だと判断したのかもしれません。あるいはもしかしたら、この援助の品を送るために、一年でその働きを切り上げたのかもしれません。

 

アンティオキア教会の人たちは、「それぞれの力に応じて」援助をしましたが、それは精一杯のものをささげた、ということでしょう。その支援と共に、アンティオキア教会は重要な働き手であったバルナバパウロを送り出したのです。

 

それは見方によれば、アンティオキア教会にとって大きな損失であるということもできるかもしれません。経済的にも、また人的にも、大きな決断が必要だったでしょう。しかし聖書は、それがまるで当然のことであるかのように、この出来事を伝えています。

 

 

これからも協力伝道!

 

使徒言行録を読んでいると、教会が色んなものを分かち合うということは、当たり前のことだったのだと気づかされます。人の働きも分かち合われますし、献金や援助という形でも持っているものが分かち合われます。それぞれの教会は、自分たちだけの思いで進み、自分たちだけのことを考え、自分たちの仲間だけを支える、というような、孤立した教会ではありませんでした。今よりも遠く離れていて、互いの様子が伝わりづらかった状況の中でも、互いに結び合わされて、協力を惜しまない繋がりがあったのです。

 

現在、連盟は機構改革に取り組んでいます。それによって組織としての形を変えることだけでなく、協力伝道の在り方も変わっていくことが予想されます。以前のように、事務所にお金と人を集めて、そこが全国の諸教会を支援する、という形は終わり、それぞれの教会が主体的に協力していく形へと変わっていきます。

 

金沢教会は協力伝道によって支えられてきました。そこから励ましを受け、学ぶことができてきました。形は変わっても、私たちは協力を惜しまない教会であり続けましょう。私たちの力に応じて、無理せず、でも楽もせず、主が連盟諸教会を助けてくださり、その間でなされる協力伝道を用いて、喜ばしい実りをもたらしてくださることに期待しながら、これからも協力伝道に励んでいきましょう。